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サムライ一家の 〜そしてボクラは家を建てるのだ〜 /モクジのページへ

第1話:家を買おうと思った


いきなりではあるが、僕は平成12年の3月4日に結婚した。
狙ったわけではないが1.2.3.4である(ちなみに僕の誕生日は昭和43年2月1日。コレも狙ったわけではなく4.3.2.1である)

横浜の海のほうの、昭和50年ごろ造成された大規模住宅街でスクスクと育った僕は、ほとんどの自称ハマッ子がそうであるように、横浜が大好きであり(そして東京がキライであり・・・その他の関東の県は興味もなく・・・)、きっと一生横浜に住むんだろう・・・と漠然と思っていた。

都会なんだけど、田舎チックな精神性を残し、綺麗なんだけどどこか猥雑な・・・そして軟派なんだけど一歩入るとハードボイルドな、そんな感じ。
そしてそこに息づくバーやレストラン、そして人々が大好きだった。

そんなわけで、「さて結婚しよう♪」となった時も、相手の親戚の来やすさなどお構いなしに、“横浜だけで”結婚式場探しは行っていた(ここで行いました・・・クリック!)。

結婚後住むところも、「横浜でしょ〜ん♪」位しか思っていなかった。まあ、実際結婚後の生活なんてそれほどリアルに考えていなかったのである。
・・・だけど、実際に結婚が近づいていくと、いろいろ考えるようになるのである。

妻は生まれてからずーっと、大きなエリア移動の引越しなどせずに、埼玉県のとある町に両親と一緒に住んでいた。
当然その地には、友達も沢山いる。しかももっと当然なことに、自営業でレストランを営むご両親がいる。

僕はその時、横浜の実家の近くの駅で一人暮らしをしていた。“もう30にもなって”、親と同居するのもなんだしね〜・・・と、いう理由が大きかったと覚えている(まあ、逆にいえば、30歳まですっかり親の元でヌクヌクと育っていたわけだが)

つまりもし横浜で、新しい生活をはじめるにあたって、環境が激変するのは妻のほうだったのである。

ここでそれを詳細に書くスペースもないし、決して面白くもない話なので、割愛するが、ヒトコトで言えば「いっちょ優しさと男気とやらを発揮したろうじゃないか!!」・・・ということで、僕は晴れてピカピカの埼玉県人一年生となったわけであった。


家賃13.5万円(駐車場込み)、駅に近く、そして妻の実家とも近い、おニューの都市公団賃貸マンション8F角部屋(バルコニー入れて90数平米)住まいはとても快適であった。

他人が聞けば、「 ふ〜ん(クリック!)」てな感じではあろうが、“可愛い”“たったひとつのたからもの”である息子も生まれ、「ナンダヨ〜シアワセヂャナイカァ!オレ!!」という感じであった。

ナカナカ慣れなかった東武東上線での60分程度の通勤(ドアツードアでは80分)も次第に慣れて来た。周りに友達も出来、横浜のように馴染みのショットバー・・・とはいかないが、よく行く焼き鳥屋さんも出来た。

「うん!うん!気分は上々!」だったのである。



世間では不景気・デフレ・倒産・リストラ・・・などと言う言葉が溢れていた。
そのお陰で短期/長期プライムレートの低下・ゼロ金利・住宅ローンの市場最低金利・住宅ローン減税・・・なんて、長い目で見たら“いいんだか悪いんだか”よくわかんないような言葉も宙を飛び交っていた。

僕の周りでも、そして妻の友達関係でもマンションや家を買う人が増えてきた。
たまに妻が言う「そろそろうちも、真剣に考えた方がいいんじゃないの〜」なんていう言葉にも、僕は無関心だった。

「よく考えてみなよ。15年前は携帯電話もなかったんだよ。10年前はインターネットもメールもなかったんだよ。10年先のことなんて・・・世の中がどうなっちゃうかなんて、誰にもわかんないよ
もしかしたらインターネットで立体画像の僕が会社に出社しちゃうかもしれないよ。そしたら、僕は蓼科辺りにのんびりした大きな家を買いたくなるかもしれないもんに〜♪」
・・・なんて感じだった。

そうは言っても全く家に興味が皆無だった訳ではなく・・・
僕もそろそろ買うか買わないか判断する時なのかな〜?
位には思い、都心のマンションがいいのか一戸建てがいいのか・・・ぼんやりと考えることはあった。

たった一度だけ、結婚式の直前くらいにマンションを“冷やかしで”見に行ってみたことが会った。

そこのマンションは横浜の伊勢崎町のど真ん中にあるマンションで、“ホテリズム”とかいうコンセプトを持つバブル時の計画の名残を存分に引き継いだような新築分譲マンションだった。
1階に大きなロビーを持ち、常駐のレセプショニストがおり、“ホテル感覚で住みましょう♪”ビバルディの四季がBGMとして似合いそうなところであった。
ゴミも玄関前に出しておけば片付けてくれるし、クリーニングなどもポストのようなところに入れておけばしておいてくれる。
なんだかギャグみたいなところだった。

「こんなトコに住んだら、お義母さんに怒られちゃうよなあ・・・」と、言うような結論をもって、その物件に関しては検討すらせずに、忘却の彼方に忘れ去ったのであった。
但し、そこのマンションデベロッパーとお話をして、“資金計画”なるものを作っていただくチャンスがあったのだが・・・
「家を買うって大変なんだな〜」といった感想だけは、ずーっとずーっと、心の中に刻み込まれたのであった。



2002年も夏が過ぎていた。
結婚直後に購入した(我が家にとっては)多くの投資信託や株式等は、デフレという旗の下に転がる石のように下落していた。「押し目!押し目!」がまるで裏目!であり、ちょっぴり自分の選択を恨め!だった。


そんな時、アメリカのテキサス州ダラスへの中期赴任が決まったそんな生活の日記はこちら・・・クリック!)。



・・・・



アメリカは僕を“カブレさせるのには十分なくらい”豊かだった。


契約したアパート(クリック!)は家賃約9万円でプール付き、駐車場付き、無料スポーツジム付きだった。目の前には芝生の大きな公園が広がっていた。
ダラスで出来た友達の家に遊びに行けば、こんなのや(クリック!)こんなの(クリック!)。おおよそ200坪くらいはあった。
広さにビックリしている僕らに、「いや〜こんなの庶民の家よ〜」という反応がさらに追い討ちをかけた。
もう少し郊外に住んでいる友達の家(知ってのとおり、アメリカ人は一般的によく引越しをし、お金をより持つにしたがって次第に郊外に住むようになります)なんかに行くと、ゴルフ場に隣接した庭で、 プールまであったりした(クリック!)

どの家にも庭には、日本では「一体だれが買うんだろう?」・・・と言うような大きな“トイザラス”などで売っている大型の滑り台やバスケットボールのバスケットやブランコなどが設置され、僕の息子は本当に楽しそうにダラスで出来たお友達と遊んでいた。

大きな庭にはその家の人が好き好きに、色んな物を植えて、育てていた。 ちょっと人が集まれば、庭でバーベキューなどが簡単に催されていた。

アメリカ人は家族を大切にするとよく聞く。

実際、仕事が終わるとほとんど真っ直ぐ家に車で帰ってしまうので、日本のように「ちょっと一杯行く?」なんてのは、イベントでもなければほとんどない(特に家族持ちの人は)
たった一人の日本人としてアメリカの広告代理店にいた僕にとっては、ちょっくら、それはそれで寂しいことだったのではあるが・・・、いろいろな友人の家を見た僕はある結論に達したのだ。

アメリカ人は“単なる家族サービス”で早く家に帰っているのではなく、家が楽しいんだろうなあ・・・

そして・・・忘れかけていた欲望が僕の中に芽生え始めたのであった。

大きな庭のある・・・家が欲しい・・・。息子や妻と・・・家族で遊べる家が欲しい・・・。

よ〜し!日本に帰国したらいっちょやってみるかぁ!!!
大きな土地を買って、レンガみたいな家を建ててやるかぁ!!!!


いくらアメリカ有数の都会であるダラスとは言え、テキサスの雄大さと“全てにおける大きさ”に慣れてしまっていた僕の脳みそでは、
それが日本では・・・しかも東京の汐留に通勤する会社員にとって、どんなに難しいことか

その時は一切想像できなかったのである。・・・・・・・・・・・・・・・・第2話につづく(クリック!)



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